望月勝海 (1905-1963)
日記およびノート(静岡大学大学文書資料室所蔵)

はじめに

 本資料は、静岡大学教授であった地学者の望月勝海氏(1905–1963)が残した生涯にわたる日記および周辺資料(ノート)を5部構成で紹介するものである。日記は、小学校時代から晩年の病床までほとんど途切れることなく残されている。旧制静岡高等学校(静高)の教師時代の抜粋が『芙蓉軒日録抄』(旧制静岡高等学校同窓会、2002)として出版され、その貴重な存在が地球科学者の杉村新氏によって言及されてきたが、全体像は明らかでなかった。令和3年に本協会日本地学史編纂委員会の委員が、ご遺族より日記全57巻と周辺資料(ノートやスケッチブック、新制高校『地学』教科書の原稿などの手稿20点を含む30点余り)を借り受けて調査研究する機会を得た。その地学史上の重要性に鑑み、ここに解説を付して一部を公開する次第である。現在、日記と周辺資料はご遺族より静岡大学に寄贈され、静岡大学大学文書資料室に保管されている。

 なお、資料中には、現在の感覚からみて不適切な用語が見受けられるが、当時の時代背景を考慮してそのままにしてある点、ご理解を願いたい。

 (参考文献)山田俊弘・矢島道子・須貝俊彦・島津俊之「20世紀日本地学史を日記の読解から再考する――地学者望月勝海の生涯と仕事、1914年-1963年」『地学雑誌』132巻3号(2023)、217-230頁。

(Ⅰ)東京帝国大学の学生時代の記録

〔日記第10巻:1925年5月4日、9月13日、9月14日、9月16日、9月21日、9月22日、391頁、399頁、8コマ、図1~8〕

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 望月は1925年4月に東京帝国大学理学部地質学科に進学した。日記には「地質学談話会」の様子がたびたび記録されており、1925年5月4日の第873回地質学談話会では、5つの話題のなかに「後期生某氏「ウェーゲナーの地殻漂移説に関する問題」」がある(コマ番号1=図1)。当時話題になっていたこの説を、望月は原書で読もうと計画し、1925年9月13日に原著の題目が挙げられた後(図2)、9月14日(図3)、9月16日(図4)、9月21日(図5)、9月22日(図6)と読書とノート作成の経緯を記載した。日記の最後にある391頁(図7)と399頁(図8)の読書記録の一覧表から、9月29日に読了し、書誌は『大陸と海洋の起源』第3版(Wegener, 1922)であることがわかる。この読書体験がベースとなって、『地質学入門』(1931)における「大陸移動説」紹介の記述がなされ、第四高等学校(四高)や静高での授業内容に反映されたと考えられる。

(Ⅱ)第四高等学校時代の大陸旅行記録

〔日記第21巻:1938年8月2日~8月27日、28コマ、図9~36〕

 四高時代の日記には、1)講義と教科書出版、2)学術論文の発表、3)研究交流、4)野外調査旅行を柱とした望月の教育研究活動が、克明かつ客観的に記録されている。日記には、1930年、1932年、1937年、1938年、1940年と、夏期休暇を利用した5 度の大陸旅行記が含まれ、列車の発着時刻や行先、宿泊地等の記載を基に、旅程を復元できる。いずれの旅行も、当時流行した植民地ツーリズムとは異なり、学術大会発表、研究教育・行政機関や鉱山の訪問、自然人文景観の車窓観察が中心である。

 1938 年の旅行は27日間と最長で、105頁にわたる。訪問先も哈爾濱を起点として満洲の西から北縁に及んだ。この旅行記録のうちスケッチや略図を含むものを中心に収録した。下関から釜山に渡り(図9)、奉天から山海関を越えて(図10~13)、8月6日から8日まで北京に滞在している(図14~18)。北京から満洲に入り(図19~22)、斉斉哈爾から満洲里の国境まで達した(図23~27)。さらに、北安から小興安嶺、黒河を経て、哈爾浜に滞在したのち松花江を船で下った(図28~33)。望月の描写は正確かつ迅速で、たとえば、近づく山並み(8月3日、図10)や「断層崖 fault scarp」(8月7日、図17)、姿をかえる谷形(8月19日、図31)が描かれ、可視情報を速やかに選別し、車窓観察とスケッチと文字記載を同時に進めていたことがわかる。現地の在留邦人地質学関係者との交流とともに(図14、20、34、35)、炭田や「油徴」にかかわる記録(図13、20、25)も興味をひく。スケッチは「フィールドノート」に描かれた「科学的データ」と言うことができ、アジア・太平洋戦争(1941-1945)前の大陸における都市・自然景観や、学術研究、資源開発、交通、治安の状況などを記録した一次史料として、高い価値を有している。また、スケッチには、望月の文理にまたがる豊かな知識、科学的な精神、文才、絵心、地図好きな性格があふれ出ている。大陸旅行で磨かれた望月の比較地誌的視点は、人文・自然地理学、地質学・鉱物学の教育研究に活かされるとともに、独自の地体構造論の構築にも貢献したと考えられる。

(参考文献)須貝俊彦「金沢時代の日記にみる望月勝海の教育研究と大陸旅行」『地質学史懇話会会報』60号(2023)、6-13頁。

(Ⅲ)旧制静岡高等学校時代の著作活動

〔日記第24巻:1941年10月1日、第25巻:1942年11月16日、1943年3月11日、5月8日、第26巻:1943年5月18日、5月24日、6月15日、6月16日、7月12日、1944年12月2日、12月7日、第30巻:1947年2月8日、3月9日、第31巻:1947年11月20日、第32巻:1948年4月5日、15コマ、図37~51〕

 望月は、1941年4月に静高に転勤する。静高時代は望月の研究・教育の充実期で、大部の翻訳であるリヒトホーフェン『支那(Ⅰ)――支那と中央アジア』(1942、佐藤晴生と共訳)、研究の集大成である『大東亜地体構造論』(1943)などの著作活動のかたわら、教育にも意を注いで多くの後進を育成した。教育的側面は『芙蓉軒日録抄』に詳しいので、ここでは執筆活動、とりわけ日の目を見なかった科学史研究に関する記述を中心に追っておく。

 独自の視点から西太平洋地域の地体構造論をまとめるのは望月の課題だったが、1941年に自然科学奨励費を得たことから(図37)、出版の準備が進み、1942年11月には生徒であった杉村新氏に原稿の一部を見せている(図38)。科学史関係の著作執筆のきっかけは、1943年3月11日に日本科学史学会から『科学史辞典』(全5巻、河出書房)の地質学史関連項目の執筆依頼があったことである(図39)。望月がこれに応じると担当の項目が送付され、さっそく調査を開始、キルヒャーや、アガシー、小沢儀明など12件の原稿を送り、5月8日に第一回の原稿料を受け取った(図40)。続いて、古生物学史や、アルドゥイーノ、ウァレニウス、小藤文次郎、アルプス研究史などを執筆(図41、42)、6月15日には第二回の原稿料を受け取った(図43)。その後も調査・執筆活動は続けられ、ダーウィン伝を読んだり(図44)、キルヒャーの項を改稿したりし、河出書房から編集者が来ている(図45)。原稿の執筆枚数を見ると、地質学、地史学のような大きな項目はそれぞれ146枚、54枚であり、積算するとかなりの量になると推定される。1944年の年末にかけては日本地質学史の原稿67枚が出版社に送られている(図46、47)。しかし、残念ながらこの企画が日の目を見ることはなかった。

 戦後になって、1947年2月8日に平凡社より全書シリーズの一冊として『日本地学史』の執筆依頼があった(図48)。大いに考えたすえ引き受け、3月9日に「はじめの話」に着手(図49)、夏休みを中心に執筆が進み、11月20日にはうまく行けば年内に印刷という手紙を受け取った(図50)。出版は1948年3月で、4月5日には図書室に寄贈するとともに献呈先リストを作成した(図51)。資料を戦災で焼かれたうえ短期間の仕事だったにもかかわらず、「名著」の呼び声のある史書が誕生した背景には、戦時中の『科学史辞典』の仕事があったことが理解できる。

(Ⅳ)静岡大学への移行期の地理・地学教育

〔第27巻:1945年7月10日、7月14日、第28巻:1945年7月26日、8月7日、8月23日、第29巻:1946年6月14日、第49巻:1959年5月21日、5月26日、第50巻:12月31日、9コマ、図52~60〕

 望月が地質学だけでなく地理学、とくに人文地理学的な分野においても研究と教育を積み重ね、独自の〈地学〉観を形づくっていたことは日記から如実に読み取れるところである。しかしその成果は、戦後の教育改革の過程で大学行政に関わるなか、十分に展開されたとはいいがたい。第Ⅳ部ではそのいわば実りに至らなかった仕事と望月の戦後の動向を追う。

 西太平洋地域のテクトニクス論と地質学史記述を一段落させた望月は、自身の研究と教育の立脚点を地誌学に求めて地理学書を読みあさり、戦時中の1945年7月に入って「概説地理学」という原稿を書き始める(図52、53)。当時流行の日本地政学からは距離を取りつつ、関連する読書の範囲は、三枝博音、辻村太郎、小川琢治などに及んだ(図54、55)。しかし終戦とともに原稿は破棄され、新しい稿が起こされる(図56、第Ⅴ部)。

 この地理学観は戦後の「人文地理学」の授業や研究会の組織化などに活かされたと考えられるが、一般的な動向としては、「地学」「人文地理学」を截然と分かつという方針が貫かれ、望月も学術振興会の地学教育研究会の会合(1946年6月14日、図57)や大学設置基準等研究協議会(1959年5月21日、5月26日、図58、59)では、理系としての地学のカリキュラム編成に従事することとなる。文理学部長や学生部長といった大学行政上の要職に誠実に尽す姿勢は学問上の成熟を妨げがちだった(図60)。

 なお、第Ⅲ部、第Ⅳ部の資料に垣間見られる日々の記録には、ここに紹介した仕事のほかに、授業などの教育業務、読書記録、地域の様子や日常生活上の細部が書き込まれており、戦中から戦後にかけての社会空間・教育空間・生活空間の連続的な変化を読みとることができる。そうした観点からもたいへん興味深い資料となっている。

(Ⅴ)ノート資料「概説地理学(一)」

〔1945年8月23日より執筆、28コマ、図61~88〕

 「概説地理学」の原稿は,静岡高等学校における「経国科」の講義に基づいて1945年7月14日に起筆された(図53)。しかし終戦後の8月23日の日記には,「十五日以前の原稿はもう通用しない」として,「概説地理学を新しいノートに書きかへ始めた」と記される(図56)。ここに掲げる「概説地理学(一)」は,この「新しいノート」に相当するとみなされる。なお、「概説地理学」は刊行されていない。

 内容は「第1篇 地理学の意味」(図62~74)と「第2篇 地球容貌の成立(地理学の基礎知識)」(図75~88)からなる。前者は、「西洋地理学の伝統」、「東洋地理学の伝統」、「地理学の意味」、「自然地理学(地文学)と人文地理学」、「環境論」、「地誌・景観」、「分布論・社会地理学・文化地理学・地政学」の諸項目を含み、地理学史・方法論に関わる内容となっている。後者は、「天体としての地球(数理地理)」、「地図の投影」、「地球の構成・地体構造・大地形」、「大気圏」、「湖沼学」の諸項目を含む。

 また、「大気圏」と「湖沼学」の間の47~48頁に当たる部分が欠損しているが、49頁には「津浪と高潮」や「海洋の形体」などのメモ書きがみられ(図85)、欠損部分も海洋に関する内容に充てられた可能性が高い。これらは、19世紀以降の英語圏で physical geography(自然地理学)の名のもとに教授されてきた内容に相当し、それらの多くは戦後日本の高等学校で「地学」のもとに教えられることになる。「概説地理学(一)」は、人文地理学や地誌学に相当する内容を欠くことから、望月はそれらを(二)や(三)として執筆するつもりであったのかもしれない。

望月勝海 略年譜

1905(明治38).9.17東京市麻布区材木町に生まれる。父は海軍軍医(6歳の時に死去)
1912(明治45).4青山師範付属小学校入学
1918(大正7).4東京府立第一中学校(独語コース)入学
1922(大正11).4官立水戸高等学校理科乙類入学
1925(大正14).4東京帝国大学理学部地質学科入学
1928(昭和3).3「能登七尾附近の地質研究」で理学士
1928(昭和3).4官立第四高等学校、講師嘱託
1928(昭和3).9同、教授(高等官7等、鉱物及地質科、地理科、自然科学科担当)
1930(昭和5).8大陸旅行 以後、1932年、1937年、1938年、1940年にも実施
1931(昭和6).7『地質学入門』を古今書院より出版(高等諸学校教科書用)
1932(昭和7).4久末操と結婚
1937(昭和12).8論文「金沢市附近の地形と地質」により日本学術協会賞を受ける
1939(昭和14).11杉浦靖子と再婚
1941(昭和16).4官立静岡高等学校に赴任(高等官3等、地学科、自然科担当)
1942(昭和17).6『リヒトホーフェン支那I』(佐藤晴生と共訳)を岩波書店より出版
1943(昭和18).8駅南住居跡(登呂遺跡)発掘
1943(昭和18).11『大東亜地体構造論』を古今書院より出版
1944(昭和19).6臨時召集で中部第三部隊入隊(陸軍二等兵)
1944(昭和19).10胆嚢炎発病
1945(昭和20).6.20静岡大空襲で博物教室など焼失
1946(昭和21).5教務課長就任、新制大学移行に際して中心的仕事を担う
1946(昭和21).6学術振興会地学教育研究第93小委員会委員となる
1947(昭和22).11『地学・地質学・地理学』を目黒書店より出版
1948(昭和23).3『日本地学史』を平凡社より出版
1949(昭和24).6新制静岡大学発足
1952(昭和27).5静岡大学文理学部長に選出
1957(昭和32).9静岡大学学生部長に就任
1959(昭和34).2文部省大学学術局より大学基準等研究協議会委員に委嘱
1963(昭和38).11.23胃癌のため逝去