「宮沢賢治と西域今昔(いまむかし)」
シルクロードを含む西域は、私たち日本人が深く関心を示す地域の1つです。本来は、中国西方地域という意味合いですが、広義には中央アジアや周辺地域を含めます。明治~大正時代にかけて未知の領域の新知見を求め日本を含め世界各国から探検隊が繰り出され『地学雑誌』でも多くの関連記事が掲載されました。さらに以下に示すように東京地学協会とも直接の関係もありました。さて、今年は宮沢賢治没後80年の節目にあたり、東北大震災ともからめて「雨にも負けず」の詩が喧伝されている状況ですが、彼の詩や童話に「西域もの」と称される一連の作品群があります。もちろん西域を訪れたことのない彼がどのようにして西域に関心を持ち、その地理的状況を知りえたのか、いわば文学と地学の異分野融合をなしえたか、興味ある課題ではないでしょうか。また、近年の人工衛星リモートセンシングなどのテクノロジーの発達により、中央アジア地域の地学情報も飛躍的に集積されており、西域に新たな光が当てられつつあります。この講演会は、そうした多様な側面から西域を捉えようとする試みです。多くの方々の来場を期待いたし、お誘いする次第です(当日受付・入場無料・定員100名先着順)。
日 時
平成25年11月16日(土)14:00~16:30
場 所
弘済会館(東京都千代田区麹町5-1)
JR総武線・中央線「四谷駅」「麹町駅」下車徒歩5分、
地下鉄丸の内線・南北線「四谷駅」共通一番出口下車徒歩5分、
有楽町線「麹町駅」下車2番出口徒歩5分。
内 容
14:00~14:05
開会挨拶
14:05~14:25
加藤碵一(東京地学協会理事・産業技術総合研究所名誉リサーチャー、第17回宮沢賢治賞奨励賞)
「東京地学協会と西域探検と宮澤賢治」:中央アジア探検の第一人者ともいえるのが、スウェーデンの地理学者・探検家であったスウェン・ヘディンで、さまよう湖として知られたロプ・ノール湖や未知のトランス・ヒマラヤ山脈の発見など多くの業績をあげました。彼が第三回の探検後に帰国途中でインドに滞在していた折、東京地学協会が日本に招へいし、その時の講演が、当協会編集の「地学叢書」4号に当たる『ヘディン号』として出版され一般にも広く読まれました。本書は賢治が在籍した盛岡高等農林学校の蔵書でもあり、おそらく賢治も目にしたことでしょう。このほか当時の西域探検の様子を『地学雑誌』の記事から要約し、賢治との関わりを紹介します。
14:25~15:05
渡辺 宏(元国立環境研究所)
「宇宙(そら)と地上からみた西域」:私は1970年代の後半から石油会社(石油資源開発)でリモートセンシングを始め、1980年代後半に中華人民共和国の西域、特に、タリム盆地北縁を何遍か訪れている。当時はまだ、欧米に対抗できる性能を持った日本の地球観測衛星がなく、アメリカのLandsat などの衛星リモートセンシングデータを解析した上で現地に赴いたが、広大なタリム盆地北縁の大規模な地質構造が露出しているのを現地および衛星画像上で見ることができ感動したのを覚えている。宮沢賢治の時代には、当然このような衛星観測は行われておらず、賢治自身はそれらを見る事が出来なかったが、もし見る事が出来ていればどんな事を考えただろうか?その後、日本は1999年にNASAと協力してASTERと言うセンサーを、2009年にはGOSATと言うセンサーを打ち上げ、中国西域の広大な地形をつぶさに観察出来るようになった。本日はそうした画像を一部の現地写真とともに紹介したい。
15:05~15:15
休憩
15:15~15:30
長岡正利(国土地理院客員研究員・日本地図センター客員研究員)
「19世紀から20世紀初頭の人たちを魅惑した西域 – この地域の地図作成小史とヘディン・スタインらのヨーロッパ探検家や日本人旅行者の記録を文献史料に見る -」:約250枚ほどのスライド映写により、足早に、標題内容を紹介させて頂きます。ここで小生が言う「西域」は、『漢書/西域伝』による、玉門・陽關から安息國(パルティア)にかけてですので、その故に、沢山あるヘディンの書についての、チベットにかかわるものは除外します。同様に、日本人旅行者の明治期の記録についても同じです。ご紹介の図版は、大部分が金子民雄さんご所蔵の稀覯書からで、その場所が判るものは、現在の状況(最近の小生写真)を紹介します。中では、ルコックやグリュンベーデルによる西域仏教古蹟の、今は失われた壁画などのカラー図版は貴重と思います。なお、折角の機会ですので、この地の西半についての、英露角逐のグレイトゲームの時代から戦後までの地図作成を概観・ご紹介します。
15:30~16:30
金子民雄(歴史家・宮沢賢治研究者)
「地学から見た賢治と西域文学」:宮沢賢治が生涯に書いた数多い作品を読んでいくと、意外に地理や地質学の世界にぶつかる。これは彼が盛岡高等農林学校に在学中、地質学を学んだからであろう。そして在学中、北上山地や岩手県各地、彼のいうイーハトブを調査に出かけたとき、その巡検先の現地体験が、のちの創作活動に大きな影響を与えたのであろう。
しかし、彼に最も大きな変化を及ぼしたものは、なんといっても法華経との出会いだったにちがいない。このことから彼は仏教の生まれ育ったインド、チベットへの関心が強まるにつれ、その揺籃の地である西域への思いがつのっていったにちがいない。そして、次から次へと西域の作品が生まれることになった。
ただここで注意すべき点は、彼は決して自由勝手に空想のおもむくままに作品を書いたのではなく、実に丹念にその基本資料を吟味し、西域研究のうちでも第一級の資料というべきヘディンやスタインの書を、参考の書として利用していることである。このことは驚くべきことだろうと思う。彼はこういった資料をよく理解し、作品を書く上で参考にしている。例えば、色彩の表現などに、西域出土の鉱物や岩石が使われていることである。空を表現するのにトルコ石や瑠璃(ラピス・ラズリ)、また紅色に紅玉髄、またホータン産の玉(ぎょく)や翡翠(ヒスイ)も登場する。賢治の博学に驚くものである。こうしたことを知っていた上で、彼の作品を読むならば、思ってもいなかった新しい発見もあるいはあるかもしれない。賢治の描いた西域作品は、あるいはいまだ開かれざる扉かもしれない。