伊能忠敬 (1745-1818) 
山島方位記外10資料(伊能忠敬記念館所蔵)

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伊能忠敬について

 伊能忠敬は、上総国山武郡小関村に生まれ、幼名は小関三治郎と言った。17歳のとき、下総国香取郡佐原村の豪商伊能家に婿入りし、49歳の時に隠居するまで、伊能家当主として家業に精励し、家産を増やした。一方、幼少の頃から学問にも情熱を持ち、暇を見つけては天文・暦学を学んでいたと言われる。

 隠居後、江戸に出て隠宅を構え、幕府天文方高橋至時の門弟となり、本格的に天文・暦学を学んだ。天文・暦学を学ぶうち、地球の大きさを知りたいという願望が芽生え、隠宅から天文方役所までの距離を導線法により測り、求めた数値を高橋至時に報告したが、距離が短すぎると一蹴され、最低限蝦夷地までの距離を測る必要があると指導され、幕府に上申して、地図を作ると言う名目で実現したのが第一次測量の蝦夷地測量である。

 その後蝦夷地の地図などが幕府に評価され、第四次までに東日本の測量を終え、第五次以降は、幕臣に取り立てられ、幕府直轄事業として西日本の測量が行われた。第十次の江戸府内測量を終え、地図の作成を精力的に進めたが、忠敬は、地図の完成を待たずに1818年に死去する。その後は、忠敬の門弟や天文方下役などにより地図の作成は続けられ、1821年に「大日本沿海輿地全図」が幕府に提出された。

 1883年には伊能忠敬に正四位の贈位が行われたが、1889年には、これを記念して東京地学協会により、東京・芝公園に青銅製の「伊能忠敬先生測地遺功表」が建立された。この遺功表は、戦時中に供出されてしまったが、1965年に東京地学協会により石造の「伊能忠敬測地遺功表」が再建され、現存する。

山島方位記について

 伊能忠敬は(1745~1818)は、1800年から1816まで17年を費やして全国の測量を行い、「大日本沿海輿地全図」を完成した。忠敬が用いた測量法は、導線法と交会法を主体とし、天文観測による緯度の測定も行った。「山島方位記」は、伊能忠敬が行った測量のうち、交会法により山や島、岬などの位置を周囲の各地から見通して測ったその方位角の記録集でである。原本は、国宝に指定され、千葉県香取市伊能忠敬記念館に所蔵されている。

資料公開の趣旨

 東京地学協会は、我が国の測量・地図の分野における地学的発展に資するところが大きい伊能忠敬の業績について、古くから顕彰する場を設けるとともに、伊能忠敬に関する学術的研究の成果などを「地学雑誌」等により公開してきている。「山島方位記」は、伊能忠敬の測量の重要な観測成果であり、伊能忠敬の全国測量に関する学術的研究に欠かせない資料である。国宝に指定されているため、原本に当たることは困難であり、画像データを公開することは、伊能忠敬研究の進展に対し、多大な意義がある。