伊能忠敬の世界的偉業
東京大学名誉教授 西川 治氏
日時:平成27年11月16日(月)
場所:東京都千代田区二番町12-2 東京地学協会講堂
参加者数:44名
要旨:
はじめに

 人が広く世のために役立つようにと精根を傾けて成し遂げた仕事は、いつか時空間を超えてさまざまに再評価され、脚光を浴びることがある。万物をのせている輿としての大地、その全貌を縮めて見やすく描いた坤輿全図、なかでも「大日本沿海実測全図」または「大日本沿海輿地全図」は、文政4年(1821)の完成後、幾世代も超えて晴れの国際的な舞台で、伊能忠敬はもとより多くの関係者たちが、まったく予想も期待もしていなかった栄光に再三輝いた。

 平成の御世になって、めでたく出そろった伊能大図を床一面に並べた日本地図展が、各地で国民の注目を集めた。しかし、約100年も前、日露戦争の最中にアメリカ第四の大都市セントルイスで開催された万国博覧会場では、なんと総長約40メートルの「大日本帝国交通地理模型」(縮尺10万分の1)が、44か国からの入場者2000万人の注目を浴びた。この模型は、明治時代の中頃に陸軍参謀本部測量局が作成した「輯製20万分の1図」を2倍に拡大した地図をベースに作られた。この「輯製20万分の1」は伊能中図をもとにしたものである(長野 覚氏による。)。

 近代化した日本をアピールすべく、この壮大な「大日本帝国交通地理模型」の製作は、委嘱を受けてから延べ1万人の職人を動員、昼夜兼行で5か月足らずで完成された。模型の規模は千島北端から台湾南端に及び、台板は384枚、起伏は富士山で12センチだった。山地や耕地や河川が色分けされ、陸海上交通にはとくに工夫を凝らし、鉄道にはレールを配して汽車を乗せ、貿易港には商船、軍港には軍艦も置き、集落は町制施行された町と人口1万人以上の村落を示した。こうしたさまざまな工夫と装飾が施された。この貴重な地理模型は「未曽有の壮大多趣味の大出品」(農商務省『万博報告書』)とされた。

1.18世紀末のフランスと日本における地球測量

 そもそも伊能忠敬は、隠居後に江戸に来て西洋の天文学・測量法を学び始めた当時、師事していた幕府天文方の高橋至時を通じて地球の大きさを正確に割り出すことが暦学上で問題になっていることを知った。一方、フランスでは17世紀以降、カッシーニ父子の功績などで1718年に精度の高い三角測量は完了していたが、地球の楕円体の偏重や扁平論争が起こり、さらに正確な弧長測量が求められていた。革命を経たフランス新政府は学士院を通じて、度量衡の基準となる正確なメートル法を定めるために、パリを通る子午線の 長さの実測を、天文学者ラランド(1732-1807)の指導を受けたドゥランブル(科学アカデミーの会員、1749-1822)とメシェン(1744-1804)に依頼した。この結果1799年にフランスではメートル法が制定された。それが施行された翌1800年(寛政11)には、伊能忠敬が緯度一度の正確な距離を測る目的もあって、幕府の要望を受けて蝦夷地の測量に赴いた。(第1次測量開始の記念すべき年)。奥州街道の往復の諸地点で緯度を測定(第2次測量)した結果、彼は緯度1度の平均数値を28.2里(10.75キロ)と算出した。これは暦学上でも、高橋至時(1764-1804)によれば「天下の宝」であった。しかも高橋至時は、ラランド(1732-1807)の『天文学提要』(1764)の翻訳版を抄訳して『ラランド暦書管見』を著した。期せずして同時に、いわば同門の門下生によってユーラシア大陸の東西両端地域で緯度一度の長さが測定されたことは、東西の地理学史上での特筆すべき出来事である。フランスと日本における同時的な測地の比較研究は、地球計測の文化史にとっては非常に意義深い課題ではあるまいか。

2.伊能忠敬の顕彰に尽力した佐野常民

 伊能忠敬と協力者たちの想像を絶する苦労は、伊能図完成後30余年もへた開国頃にようやく報いられた。さらに明治初期にかけて伊能図がいかに日本の政治・外交・文化面において真価を発揮したか、その感動的な史話を残したのは、佐賀鍋島藩出身の佐野常民(1822-1902、日本赤十字社の創設者)である。元老院議長の重職にあった佐野は明治15年(1882)9月、東京地学協会で伊能忠敬の功績に対して熱弁をふるい、贈位を申請し、記念碑建設に尽力した。この講演「故伊能忠敬翁事蹟」の全文は、同協会報告(第4巻第4号、1882)に掲載され、その主要部は保柳睦美編著『伊能忠敬の科学的業績』に再録されている。

 長崎の海軍伝習所には鍋島藩からも佐野をはじめ藩士たちが学んだ。当時、永井尚志所長の手元には伊能小図の写しがあった。その図を一見した佐野は百方懇請してこれを借り、同藩の図手6,7名に命じて日夜を問わず謄写させた。その後、彼は藩命により船長として航海することになり、この伊能小図には、島々の形状、岩礁の位置などが正確精詳に記載されているので、絶えずその力に頼った。まさに「暗夜灯火を得たるの思いあり。深く翁が図の精なることに敬服し、その功の大いなるに驚嘆せり。のち幕府これを刊行して世に公にするに及んで、内国の航海者、広くその恵みを被るに至れり」と述べた。この刊行図とは、慶応元年(1865)頃に開成所から出版された四枚一組の「官板実測日本地図」である。

■幕末動乱期、イギリスの海軍に渡った伊能小図

 日英和親条約締結(1854)後の文久元年(1861)、英国のアクテオン号が砲艦三隻を伴い、長崎を経て神奈川に至り、わが国の沿海を測量したいと幕府に要請した。幕府は尊攘派からの反発を懸念して、通訳兼の立合役人を同乗させた。その代表人・荒木済三郎は、伊能図を船将ウォードに見せた。荒木が遺した日記の一部によれば「測量絵図を船将が一見すると、経緯度ならびに沿岸津々浦々、詳細に測量が行き届いているので、英船で改めて測量絵図を仕立てても、このうえ精密にはなるまい」。こうしてウォード隊長は公使オールコックを介して、この伊能小図を入手。彼の手記を抄訳すると「自分は、われわれ自身の測量による地図とこれらの地図を注意深く比べてみた。これらの地図は(中略)じつに正確に描かれていて、十分に信頼できるものである。このことを知ったときは、非常にうれしかった。これが入手できれば、いろいろ心配されている困難や不幸を避けることができると思ったからである」と書いている。

 佐野は語る。「もし(伊能)翁の図なかりせば、英人測量のことをとどめず、その船艦のわが沿岸の港湾に進航し、諸藩との葛藤を生じ、ついに和親を破るに至りしも、また測るべからず。しかるにそのことなかりしは、まことに翁の余功といわざるべからず」と。

■イギリス製日本沿海図

それから2年も経たないうちに、伊能図に基づいた地図が世界的な規模で流通することになった。それは、大英帝国海軍水路部が1863年5月に発行した「日本とコリア(朝鮮)の部分的暫定版海図」(2347号)と「瀬戸内海図」で、ともに日本政府の作製図(伊能図)に基づくと明記されている。佐野は前記の講演中にこの図を提示して、これは「ひとり翁の名誉のみならず、またもってわが日本の名誉と称すべきなり」と述べている。

■万国博覧会の伊能図、国際的な晴れの舞台

 慶応三年(1867)、パリで万国博覧会が開催された。皇帝ナポレオン三世の要請により幕府もこれに参加し、徳川慶喜は代理として弟である水戸藩主の徳川昭武を派遣した。その4月28日に、チュイルリー宮殿で皇帝謁見式が行われた。徳川昭武が皇帝に図書を渡した儀式のあと、皇帝への贈品目録は式部官に渡された。その「御贈品目録」には:、「一.水晶玉 一、組立茶室一組、一、源氏蒔絵手箱、一、松竹鶴亀蒔絵 一、実測日本全図 一部、以上」と記されている。この日本全図は「官板実測日本地図」だったとされている。これは、伊能小図に基づいて開成所が編纂した木版刷の「実測日本地図」一組(四舗)であり、とくに刷りの良いものが贈呈用・展示用に特別に仕立てられた。

■ウィーン万博

 明治6年(1873)にウィーンで開催された万博にも、伊能図をもとにした日本地図が出展された。佐野常民は、その前年から博覧会御用掛、同理事官として準備にあたり、10月27日には大隈重信が博覧会事務総裁、佐野が同副総裁に任命されてウィーンへ赴いた。日本の近代的科学技術を代表するものとして、佐野は太政官正院地誌課に命じ、伊能図をもとにほかの諸図などによって増補修正させたx100日本図を出展した。彼は、「これをその会場に列し、すこぶる各国の称賛するところとなれり」と述べている。ちょうど明治4年12月から明治6年9月にわたる米欧視察をしていた岩倉具視一行は、最終日程でこの博覧会を見学したが、好評を目の当たりにして良い土産話になったことであろう。残念ながらこの日本図はまだ発見されていない。

3.海外で刊行された日本地図

 日露戦争後まもない明治42年(1909)に、ハンガリーの首相も務めた地政学者P.G.テレキ(1879-1941)による画期的な大著『日本列島地図史アトラス』が、ブダペストで出版された。これは、コロンブスまでの幻のジパング以後、16世紀末のメルカトルやオルテリウスの時代を経て、ロシアの艦長V.N.ゴロヴニン(1776-1831)が1811年に作製した「クリル列島図」に至るまでの、日本と周辺地域の壮大な地図発達史である。

 このアトラスの巻末には、18世紀末から19世紀初頭にかけてのヨーロッパ人による日本と蝦夷および樺太(サハリン)を描いた地図、たとえばラ・ぺルーズの地図(1787)やブロートンの地図(1796-97)、クルーゼンシュテルンの地図(1805)、そしてゴロヴニン製の地図が掲載されている。これらの地図を伊能図と比較してみると、蝦夷の形はもとより本州の輪郭もかなり不正確であり、伊能図がいかに優れているかが一目瞭然である。

 さらに終章最終頁では、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト畢生の大著『日本』という、当時のわが国の網羅的な知識を包括した日本誌集大成を絶賛している。とりわけ、日本国と属領地や周辺地域に関するシーボルトの地理知識の修得にもっとも役に立ったのは、次のような人々だったと指摘している。まずは日本人の自国についての知見の収集と刊行物、そしてヨーロッパの航海者たち、すなわちゴア、キング、ラ・ペルーズ、コルネット、ラクスマン、ブロートン、クルーゼンシュテルン、ビーチー、ホールその他の人々の測量成果、そして天文方・高橋景保、士官・最上徳内、測地家・間宮林蔵である。日本の蝦夷・樺太・千島の正確な知識は、とくに最上と間宮のおかげであるとも記している。

 しかし惜しまれることに、そこには、高橋景保の影に伊能忠敬の名は隠れ、間宮林蔵が伊能忠敬から測地法を学んだ事実もふれられていない。

終わりに

 ヨーロッパの探検家たちによる、幻の黄金の島、ジパングの探索、いわゆる新大陸の発見史と植民地の経営と航路の開発、より正確な世界図の作成史、世界アトラスの刊行史などに、幸か不幸か、極東の幸福な鎖国的島国日本人たちはなんら貢献できなかった。しかし, その反面ではヨーロッパ人たちが、ついになし得なかった日本列島の実測に基づく正確な地図の作成。それを日本人自身の測量家、取分け伊能忠敬一行の約20年間にわたる超人的努力によって見事に達成された。しかもその途次ではあったが、1810年には、幕府の天文方兼書物奉行、伊能の若き上司、高橋景保(1785-1829)が、仮製伊能図や間宮海峡(1809)、James Cook(1768-79)の探検航路などの斬新な知識を駆使して、当時のヨーロッパでは最良の世界図を修正、それゆえに世界最良の世界図とも呼べる『新訂万国全図』(1810)を作成した業績、それこそ、近世の世界地図史を飾るテレキ博士へ優れた贈り物であり、地球人類史の黎明を告げる明星であった。

(配付または展示資料)
佐野常民(1882)故伊能忠敬翁事蹟 東京地学協会報告4-4 1-14
Paul Teleki(1909)Atlas zur Geschichte der Kartographie der Japanischen Inseln. Budapest (Reprinted by KRAUS REPRINT LIMITED, Nendeln, Liechtenstein 日本総発売元 (株)雄松堂書店)184p+20図版
保柳睦美(1970)伊能図に基づいたイギリス製日本沿海図 地学雑誌79 224-236
保柳睦美編著(1997)『伊能忠敬の科学的業績』復刻新装版 古今書院510p
長野覚(2001)「1904年(明治37)聖路易(セントルイス)万国博覧会出展の「大日本帝 国交通地理模型」(10万分の一)について」 歴史地理学43-3(204)20-35
ケン・オールダー/吉田三知世訳(2006)『万物の尺度を求めてーメートル法を定めた子 午線大計測』早川書房
その他多数
(西欧で流通している日本地図が伊能忠敬の測量後急速に精密化したことが、伊能以前の地図を集成したPaul Teleki(1909)、伊能以降の地図等を紹介した保柳睦美(1970)、長野覚(2001)などの地図や写真で示された。)