第301回地学クラブ講演会(7月)の予定が決まりましたのでお知らせします。一般(非会員)の方々も気軽にご参加下さい。多数の方々のご来場をお待ちしています。

日 時:平成29年7月21日(金)15:00 ~ 16:00

場 所:東京地学協会地学会館2 階講堂(東京都千代田区二番町12-2)

交 通:東京メトロ麹町駅5出口を出て左へ徒歩1分
    日本テレビ向い JR市ヶ谷駅から徒歩7分、四ッ谷駅から徒歩9分)

講演者:高田亮(産業技術総合研究所)

演 題:宝永噴火後300年の富士山

要 旨:

 富士山(富士火山)は、現在の山体体積が400~500㎦と見積もられているが、侵食された噴出物や遠方に飛散した噴出物を含めるとはるかに多量の噴出物を噴出させてきた。陸上の火山では日本で最大の成層火山である。3つのプレートが会合する三角点上に位置する富士山には、その噴火間隔、噴出量、噴火場所、噴火様式に多様性がある激動の噴火史がある。富士山は、爆発的噴火をくり返した時期と多量の溶岩流を流出した時期があった。山頂だけでなく山腹で多くの割れ目噴火が卓越する時期と山頂噴火が卓越する時期があった。噴火割れ目は、山頂から13㎞強の距離までの範囲内で発生している。

 Hawaiiの火山のような盾状火山と違って、富士山型の場合、山頂での爆発的噴火の結果、急な斜面をもつ円錐形の山体が形成され、火山性の扇状地が広大な裾野をつくる。爆発的噴火をすると、噴煙柱が10㎞以上あがり、火山灰が偏西風にのり、100㎞以上離れた東京や千葉まで降下し、様々な複合災害を起こすことも想定される。山麓では、火砕流や火山性泥流などの多様な災害が起こる危険性もある。頻度は低いが、山体崩壊も過去数回発生した。

 約10万年前より2万年前には、遠方に火山灰を飛ばす爆発的噴火が卓越した。山体崩壊も複数回発生した。約2万年前には、山体が西側に馬蹄形に崩壊し田貫湖岩砕なだれが発生した。2万年前-5600年前には、多量の溶岩流を裾野に流して休止期をむかえた。5600年前-3500年前には、火山活動は活発になり、山体周辺に火砕物を堆積し、溶岩流を流す噴火を繰りかえし、山体は次第に高くなり現在の山頂かそれ以上の高さまで高くなった。ときおり火砕流も発生した。東斜面には、田貫湖岩砕なだれの馬蹄形崩壊で残った山陵があり、この当時は、1つのピークをもつ今の富士山の形状とはとは全く違っていた。

 3500年-2300年前には激動期を迎え、山頂で爆発的噴火を繰りかえし、遠方に火山灰を降下させていた。山頂には直径500mの大きな火口が結果として形成された。約2900年前には、東斜面に飛び出していた山体崩壊の残骸からなる山陵が東側に崩壊し、御殿場岩砕なだれが発生した。

 2300年前以降、山頂での爆発的噴火は終了し、山頂から噴煙が上がっているのが9世紀の富士山記(都良香)や10世紀の竹取物語などの古文書に記述されている。一方、山腹では多くの割れ目噴火が起こった。奈良から平安時代になると富士山は活動期に入り、御庭奥庭第一噴火物、第二噴火物や青木ヶ原溶岩流を噴出した貞観噴火に代表される山腹割れ目噴火が頻繁に起こった。西暦900-1050年頃には、山頂を挟み南北にそれぞれ長さ12km、8kmにわたる割れ目噴火が2回起こった。鎌倉時代以降は、火山活動は静穏になっていき、修業の場として利用されはじめ、江戸時代は富士講という信仰登山が活発であった。

 宝永1707年噴火は、溶岩流出のない爆発的噴火で、火砕物を0.7㎦噴出させ、南東山頂に3つの火口ができた。宝永噴火の49日前、1707年10月28日には宝永地震が起こっていたことも注目される。宝永噴火では多くの災害が、しかも長期間にわたり発生した。宝永噴火後300年間にわたり噴火がないが、観測網が敷かれてからは、低周波地震が、富士山の下約15kmの地殻中部で観測されている。